群青が空高く広がっている。
穏やかな風。ざわめく木々。木陰に隠れる生き物たちの気配。それらすべてが明日奈に『秋』を知覚させる。
午前の授業を終えた明日奈は、籐かごを片手に中庭へと向かっていた。良好な気象設定が頻発するこの季節であるが、今日は特に素晴らしい。外で食べると風が強かったり暑すぎたりすることもあるのだが、こんな日はその心配もない――と軽やかな足取りで中庭へ歩を進める。
ぴたり。
華麗なステップはしかしベンチに佇む姿を認知し停止した。明日奈が愛してやまないその人が先に来ていることもさることながら、もっと心くすぐられる現象がそこには鎮座していたのである。
「キリト君……眠ってる……」
遠目からでもわかる、安らかな寝顔。
ベンチの背もたれに身を預け、陽光を浴び、俯きながらすぅすぅと眠る和人がそこにはいた。
SAO時代は彼の昼寝現場を叱ったこともあったアスナであったが、学校で会える貴重な数十分を眠りに費やすことを、学校が始まってから和人は避けていた。以前あくびをした彼に「そんなに眠たいなら寝れば?」と苦笑交じりに提言したら、「明日奈を長い間見てたいからヤダ」と返され(しかもそのあと気障な発言に気づき慌てふためいたので)、気恥ずかしい状況に陥ったことがある。
さささっと近づいてみる。現実世界でも索敵スキルの高い彼のことだ。すぐに近づくわたしに気づき、重たげな瞼がふっと上げられ「おはよ、明日奈」と声を掛けられる――かと思ったのだが、すとんと腰を下ろしても、愛しの人は未だぐぅぐぅ眠りこけたままであった。
(起きない……)
そういえば昨日「溜め込んだ課題が終わらない」とかぼやいてたなぁと思い出す。徹夜でもしたのだろうか。だとしたら相当深い眠りに落ちてしまっているのだろう。
少し背が伸びても、幼い寝顔だね……。
心の中でひとりごちる。穏やかな寝息をたてる和人が愛しくて、起こさないように指でそっと頬をつつく。
年頃の男子とは思えないほど、滑らかで白い肌。ニキビ一つない細やかな皮膚は、洗顔などのケアに追われている女子からしたらうらやましいことこの上ない。男性ホルモンが少ないのだろうか。
むに。
「わ…………」
ほっぺたをつまんでみると柔らかく、予想外に伸びる、伸びる。なんだか楽しくなって夢中で明日奈はほっぺたを弄った。押したり、ぐりぐりしてみたり。さすがに起きるかな、と思ったけど、そんな心配をよそに和人の瞼は固く閉じられている。
「ん……」
「あっ…………」
わずかに身じろぐ気配。寝やすい姿勢を探しているのか、はたまたくすぐったかったのか、少し眉を顰め、首をいやいやするように動かしている。
(うぅ……っ)
その姿に明日奈は激しく身もだえた。いつもは見せない彼の無防備な姿が愛しくて、守ってあげたくて。きゅうっと胸に熱を感じる。どうしようもなくこみ上げてくる幸福感。学校じゃなかったら思いっきり抱きしめていた。お弁当のことはもう頭から消えていた明日奈は、緩みきった顔で抱きしめる代わりに黒髪を二回三回と撫で付けた。
――と、その時。
座ったまま器用に熟睡していた和人が、ぐらりとバランスを崩し、明日奈に倒れこんできた。
「――え。キリト君……?!」
「むにゃ…………」
「…………」
和人は変わらず寝ている。それも、明日奈の膝の上で。右手は同じく膝の上に、左手は所在なさげにぶら下げて。
「……かずとくーん」
キャラネームじゃない、ほんとうの名前で呼びかけ、顔を両手で挟みむにむに頬肉を持ち上げてみるが、
「くー……」
と、かわいらしい寝息をたてるばかりであった。
(ほんとうに爆睡してる……)
先ほどまでは狸寝入りを決め込んでいるのでは、と若干疑っていたが、明日奈はその可能性を完全に否定した。ここはカフェテリアから丸見えなのは和人も重々承知している。膝枕なんて噂になるような恥ずかしいことを、彼が意識のある状態でするとは思えなかった。もしかしたら連日の疲れも溜まっているのかもしれない。
「ごはんだよ、キリト君。起きよう?」
優しく揺らしてみても、やっぱり和人は起きない。すぅすぅと小さく胸を上下させるだけ。なるべく休ませてあげたい気持ちもあったが、膝枕はちょっと恥ずかしいし、ごはんもたべてもらいたかったので明日奈は心を鬼にした。
さわさわ……さわさわ……。
両手で首や頬をくすぐってみる。
細い首、顎、鼻、おでこ……と明日奈の細指がせわしなく動く。だが、和人はこんな初歩的な攻撃にはびくともしなかった。明日奈は小さく唇を噛む。
――もっと……もっとキリト君に刺激を与えるような方法はないの……!?
ふと、『眠り姫』の童話が明日奈の脳裏をかすめた。あれはたしか、呪いで眠ってしまった王女が、王子の口づけで目覚めて……。
ぼん、と明日奈の顔が朱に染まる。思わず和人の小さく開いた唇を眺めてしまう。いやいや、確かに刺激的だけど、起きるかもしれないけど。ここはカフェテリアから丸見えだし。(一応)わたしたちもここでは、キスどころかハグでさえ自制しているのだし。
キスは……キスは最終手段なんだから!とりあえず却下!
(仕方ない……ごめんね、キリト君……)
意を決した明日奈は、少々痛みの伴う方法を実践した。両ほほをぎゅーっと、思いっきり引っ張る。むにゅう、と口の形が変形し、ゆがむ。指の跡がしばらく残ってしまうかもしれない。
「んぅー…………」
……だが。これでも和人は起きなかった。少しだけ不快そうな唸り声をあげ、すぐに夢の世界へダイブしてしまう。そんな。おかしい。たっぷり十秒以上はつねったというのに。万策尽きた明日奈は力なく項垂れた。
(おきないよぅ……)
そのうちごろん、と、気分は自室のベットなのか、和人は寝返りまで打とうとする。当然明日奈の太ももにはそのような広いスペースは確保されていないわけで。最終的に本能が察したのか、寝床から落ちないように明日奈のプリーツスカートをはっしと掴んで動きを止めた。
「……ひゃ…………」
困ったのは明日奈だ。先ほどの行動により、白い腿が惜しげもなく晒されてしまう。そのはだけた部分に、先ほど弄ってたすべすべの頬とちくちくする髪が触れ、いよいよ危ない状況になってきた。
「……んぅ……ゃ……!」
すべすべ。ちくちく。
――やめて! やめてよ、キリト君!! あ、くすぐった……!
そんな明日奈の心の叫びむなしく。
――バターン!!
必死に抵抗したおかげで、和人と明日奈は二人揃って仲良く転倒した。チチチ、と雀が数羽飛び去っていく。
(き、き、キリト君――――!!?)
「ぐぅ……」
なんとなんと、和人は明日奈を組み敷く形で被さっていたのだ。
しかも、絶妙に明日奈の動きを封じるように手足が配置されている。和人には女の子とたまたまこういう状況に恵まれる神が味方しているのだろうか。いや、わたしだったからよかったけど。よかったんだけど。
とにかく、このままじゃ動けない。
「キリト君……起きて……っ!」
「うぅー」
――やっぱり起きない……。
明日奈が和人の体を離そうとすれば、「う……」と小さく抗議の声をあげ、幼い子供のようにしがみついてくる。そのしぐさに母性が大いに刺激されつつも、状況が大変恥ずかしいので一刻も早く何とかしたい。
ふと、後頭部に柔らかいものを感じ、動きを止める。頭が、和人の腕に掻き抱かれていた。先ほどまでプリーツスカートを握っていたその右手は、どこをどう交錯したのか明日奈の後頭部を襲うはずだった衝撃を遮っている。
(キリト君……)
意識がなくても、わたしを守ってくれたの――?
「ん…………」
いまだ夢の中のようだったが、「そうだよ」と返事をしてくれたように聞こえて、思わず微笑んだ。
――うれしい。
あどけない寝顔が眼前にある。少し唇を突き出せば、触れてしまえる、距離。
この位置なら茂みに隠れてわたしたちは見えない。
それなら。最終兵器を使っても、平気だよね……?
――そろそろお弁当の時間なんだから。
起きてもらうよ。
黒い《眠り姫》さん?
明日奈は和人の首に腕を回して、彼の唇を啄み、深く口づけを交わした――。
初出:2015年2月10日

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