ユウキが旅立ってから、二週間が経つ。
ユウキにもう会えない。あの笑顔を見ることは、二度とない。
それが『死』。
わかっていたはずだった。死ぬとはどういうことなのか。浮遊城の二年間に及ぶ生存競争の中で。
それでも、ユウキがもういないという現実は、受け入れがたかった。肩のプローブに話しかけても、ユウキが答えてくれる気がして。ログハウスにいると、ユウキがぴょこっと飛び出してきて、抱き付いてくる気がして。
それは、アスナの中のユウキが、まだ生きているということ。
彼女の遺した遺志が、アスナの胸に宿っているということ。
ユウキが遺していったものを、アスナは受け止め、前に進まなければならない。
ユウキが亡くなってからも、アスナは人前で泣いたりしなかった。なんだかユウキが悲しむ気がして。――泣かないで、アスナ。そんな声が聞こえる気がして、アスナは家のベッドでしか、感情的に涙を流さなかった。なにより、ユウキのことを一度思って泣き出すと、止まらなかった。嗚咽が漏れ、呼吸もままならなくなる。ずっとそんな調子じゃ、周りのみんなや、なによりずっと支え続けてくれたキリトが心配する。
枕を抱いてユウキを思ううち、アスナはふと不安になった。
ユウキはわたしと過ごして、幸せだったのか。わたしはユウキにたくさんのものを貰ったのに、わたしはユウキに何かできただろうか――。
深夜、そのことで頭がぐるぐるしてしまったアスナは、22層の森の家にいた。
自分の布団でうずくまって朝を迎えるより、落ち着くこの空間で心を休めよう。
平日の深夜――しかも、とうに日付は超えているので、ログハウス内には誰もいなかった。ユイもこの時間は情報整理という名のAIにおける睡眠活動のようなものを行っているので、出てこない。
静かな部屋を眺めていると、鮮明にユウキの記憶が蘇ってくる気がして、アスナは目を閉じた。
がちゃん。
ドアの、開錠音。
振り返ると、浅黒い肌のスプリガンが立っていた。
アスナは驚愕する。
「き、キリト君!?」
「ああ、アスナか……」
キリトはさして驚きもせず、よっこらせと部屋に入ってきた。
「何してたの……?」
おずおずと問うとキリトはあっさりと
「練習」
とだけ答えた。
なんの練習なのか、果たしてはぐらかす意味はあるのかと考えていると、
「アスナこそこんな時間に珍しいな」
とだけ告げた。
「うん……、ちょっとだけ、眠れなくて…………」
キリトは特に相槌を打つわけでもなく、揺り椅子に腰かけて大きく伸びをした。どうやらログアウトする気はないらしい。
いや、アスナにはわかっていた。これは、「俺でよかったら話聞くぜ」というキリトなりのささやかな心遣いだ。
お言葉に、甘えさせてもらおう。
「あのね……今日、ちょっと不安になっちゃったんだ……」
ぽつり、ぽつりと言葉が零れる。
「わたしはユウキにたくさんのものを貰ったの。でも、わたしはユウキに何かお返しできたのかなって。考えると、なんか、なにも出来なかったような気がして……わたし、ユウキに……」
話しているうちに、アスナは目じりが熱くなるのを感じていた。
「何も……与えることが、出来なかったんじゃないかって……。わからなく、なって……ユウキにとってわたしと過ごした時間が、幸せ、だったのかな……って……」
情けない。わたしは、強くなったのではなかったのか。
何もユウキにしてあげられなかったかもなんて、いくら嘆いても、この声が彼女に届くことはもうないのに。
それでもキリトの前では強がりたくて、アスナは掌を強く握った。
「――伝言を、頼まれたんだ」
「え?」
見上げると涙でかすんでしまったが、優しげな顔をした少年がいた。ぽん、と頭を撫でられる。
「俺さ、倉橋さんとメールのやり取りしてた、って前言ったろ?」
「うん……」
「その時聞いてたんだ。ユウキの余命が、もう、本当に長くないこと」
「え……」
「ユウキはメディキュボイド使い始めて三年、って聞いてたからさ。終末期医療って言ってもあと数年は生きられる……そしたら医療も今より進歩して……って思ってた……。でも、ユウキはアスナが行った一月くらいから、常に細い糸の上を渡り歩いてるような状態だって聞いて……永くても、三月いっぱいだろうって……」
倉橋医師から初めて会った時以来、そこまで明確な病状と死期を聞いていなかったアスナは、キリトがそれらを知っていたことに素直に驚いた。もっともこの話題は、アスナ自身が忌避して敢えて聞かなかったということもある。
「俺、なんにもできないなって思ったんだ。仮想空間でも現実世界でも本当に無力で……、たった一人の女の子を、助けることもできない……。だから、せめて、ユウキの時間を、アスナの意志を、尊重したいなって思ってたんだ……。そうすれば、ユウキはアスナの中で鮮明に生き続けるだろう?まあ、倉橋さんにそのことを聞いたの、なんかユウキにはばれてたっぽいんだけど……」
「……そうなの?」
「あいつも大概なカンの良さだぜ。で、それ言われたときにな、アスナに伝言頼まれたんだ。自分で伝えろって言ったんだけどな……」
「伝言…………」
ようやく約束を果たせると、ほっとするキリトの表情を見て、アスナは確信していた。おそらくキリトは、ユウキとの約束を果たすためにこんな夜遅くにALOにログインしていたのだ。ユウキの生きた世界で、アスナ一人に告げられるタイミングを待って。
いつかアスナが、一人不安になってこの世界に飛び込んでくると確信して。
キリトはアスナに手向ける。
少女がとうとう自ら告げることのなかった言葉を。
『アスナ。ボク、幸せだった。たとえ、別れの時がきても、君といた今日をボクは忘れない――、忘れないから――』
「またいつか、違う世界で会おう――」
アスナの瞳から、大粒の水滴が零れ落ちた。
頬を伝い、いくら流れても溢れてくる。でも、ただ悲しいだけの涙じゃない。胸にこみ上げてくる、この暖かな想いに、いったいなんて名前をつければいいんだろう?
アスナは、堪えきれない涙を流しながら、笑った。快活な深紫色の少女を思い出して、自然と笑みがこぼれたのだ。
――ああ、そうか。
ユウキ、わたし、もう泣かないよ。
――君を思い出す時は、いつも笑っていたいもの。
キリトの肩に顔を押し付ける。今は、泣き顔を見られたくなかった。
「アスナ……」
優しく包まれるがままに身を任せる。長い長い沈黙の後、アスナは口を開いた。
「覚えてる……? 昔わたしが、自殺するって言ったときのこと……」
キリトがびくりと体を硬直させる。
「ああ、覚えてる……」
苦しそうに言葉が紡がれる。こわばるキリトの顔を、アスナは見つめた。水色の双眸は潤んでいたが、同時に穏やかな光が湛えられている。
「……今思い出してもね、あの時はやっぱり、そうしたと思うの。あの鋼鉄の城では、わたしは君なしじゃ生きられなかった……」
キリトの肩がわずかに震える。落ち着かせるように背中をそっと撫でた。
「でも……今、君がどこかにいなくなっても……わたしは死なないよ」
「え……?」
「だってわたしが死んだら……わたしの中に生きてる人たちまで、手にかけることになるでしょう?キリト君にリズ、シリカちゃんにリーファちゃん、シノのんやスリーピング・ナイツのみんな……それにユウキ。わたし、この一年で、いろんな人から大切なものをもらったもの……。その人たちは、わたしのここに深く息づいている……」
アスナは自分の心臓に手を当てた。キリトも胸に手を当て頷く。
「そうだな…………。出会った人、目の前で消えていった人、そして、この手で、…殺してしまった人たちに対して、俺たちはその命を背負っていく責任があるもんな……」
自嘲するように自分の掌を見つめるキリト。その手をぎゅっと握りかえし、震える声で囁いた。
「……でもね、キリト君。やっぱり、もうこうして、温もりを分け合えないのは、寂しい。寂しいよ……」
「アスナ……」
「お願い……キリト君は、いなく、ならないで……!」
「……っ」
固く、固く抱きしめられる。
魂の在り処を確かめ合う。
触れ合う互いの身体はどうしようもなく、温かかった。
仮想世界での体温なんて所詮は偽物。アミュスフィアから電気信号が送られているに過ぎない。
でも、ここで感じた心の温かさは、本物だ。それをわたしはあの浮遊城に、そして、懸命に生きた一人の女の子に教えてもらった。
「アスナ……、約束するよ。これからも必ず、君の隣で生き続ける。絶対に君を置いて、いなくなったりしないから」
「わたしも……わたしもずっと君と生きる……永遠に生き続けるから…………。もしも君が別の世界に旅立っても、必ず連れもどしてみせるから……この世界に、還してみせるから……」
それ以上は言葉にならなかった。言葉がなくても触れ合う温もりが二人の決意を伝えてる気がした。
唇をそっと重ねる。これは、誓いのキスだ。
最期まで、命をもやした少女に二人は誓う。これからも、あなたとともに生き続けると。
――ありがとう、ユウキ。
わたしと出会ってくれて、ありがとう。
いつか、ユウキの照らした光が暖かな陽だまりとなり、みんなのこころを満たしていく。
きっと。
ずっと。
初出:2015年2月6日

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