雲の端が黄金色に輝いている。
世界の終わりを告げる夕暮れは、ため息が出るほど荘厳だった。そんな夕色に佇む、独りの女性。俺がこのアインクラッドでパートナーとし、友とし、妻としたその人の名は、アスナ。
彼女は夕陽に照らされて、全身が光輝いていた。俺はまばゆいその身体に手を伸ばして強く引き寄せる。もう二度と離れてしまうことのないように。
《最終フェイズ実行中 64%》。
ウィンドウを開くと出てくる無機質な文字。それは俺たちに残された時間を示している。
残り36%が終了した瞬間に、この世界は終わりを迎える。俺たちはその時を、ただ待つばかりだった。
現実で彼女がどこにいたのか、何をしていたのか、俺は知らない。聞いてもよかっただろうとは思う。幾らアインクラッドで現実世界の話がタブーだとは言え、俺たちは既に夫婦なのだから。
だが、俺もアスナも異常が日常のデスゲームで生き抜くための強固な鎧をあまりにも纏い過ぎていた。鎧が崩れ落ちた瞬間、剣士キリトはただの虚弱なゲーマーの桐ヶ谷和人になり二度と剣を取れなくなってしまう。だからクリアするために、俺たちは現実の自分を封印していた。
それでも解る。この世界でそうだったように、向こうでもアスナは、皆を照らす光であったのだろう。やはり彼女は俺を庇うために死なせてはいけなかった。なんとしても、俺が向こうに還してやらねばならなかった。
――なのに、それなのに。
……彼女と一緒に消えていけることに、幸福すら感じているのだ。俺は。
生きるなら二人一緒がいい。死ぬなら二人一緒がいい。身勝手にもそう思ってしまう自分がいる。腕の中で確かに感じる彼女が、どうしようもなく愛おしい。
お互いのポリゴンの接触面がもどかしかった。あらゆる垣根を取り払って、一つに溶け合ってしまいたい。どうしようもない欲に満たされた俺は、赦しを請うようにアスナに縋りついた。髪に顔を埋めると、花のようないい香りがする。
彼女の全存在を感じたくていつまでもそうしていると、やがてほっそりした指が俺の頬を抑える。アスナが淡い微笑みを浮べていた。俺もどうにか微笑んで、ゆっくりと唇を重ねる。
彼女の口腔は甘く蕩けるようで、舌を伸ばすだけで恍惚とした。しかし微かに漂う死の味が、俺の心を震わせる。SAOの味覚再生エンジンにそんな味がプリセットされていたのかは解らない。だが俺は確信した。ああ、アスナは死ぬのだ、と。この世界の終焉とともに、ポリゴン一つ残らず消えてしまうのだと。
途端、名前の付け難い感情があふれてきた。
――アスナ。
泣きたいほど切なく、心臓が張り裂けそうになるほど愛おしい。
どうせ死ぬのなら。この世から消え去ってしまうのなら、その前に。
君の全てが欲しい。
頭が真っ白になった俺は、逃れようとするアスナに構わず彼女を求めた。それは窒息してしまうのではないかと思われるほどに、深く長いキスだった。
「はっ、……ふ…………、キリト、くん…………」
残り26%。
唇を離すと、すぐさま彼女の腕が俺の首に回された。そのまま引き寄せられるようにして、アスナの体に倒れこむ。俺たちは二人、夕焼け空に横たわった。
「アスナ………………」
髪を梳きながら、黄金に輝くブレストプレートと赤と白の騎士服で身を包んだアスナを見つめる。
美しかった。光の滲むはしばみ色の瞳も、絹糸のような髪も、そのかんばせも。何もかもが、言葉にするのも躊躇われるくらいに美しい。
耳から首元にかけてを、つぅっとなぞる。ひくん、とアスナの睫毛が僅かに震えた。先ほどのキスの余韻か、真っ赤になったアスナの肌は非常に艶めかしく、俺は勝手に動こうとする自分の右手を抑えるのに必死だった。
これ以上は――止められなくなる。
俺は性欲なんてものよりももっと深く、凶悪な欲動が燻るのを知覚していた。
アスナに触れたい。抱き締めたい。繋がりたい。キスしたい。
――いや。もっとその先。彼女と一つになって、互いの接触面を消し去って、どちらがどちらか解らなくなるまで溶け合って、魂をも融合してしまうのだ。そうすれば、俺とアスナは永遠にひとつだ。想像するだけであまりに甘美な誘惑だ。
――でも。
それは、俺の身勝手な欲望だ。アスナとの約束を守れなかった俺には、彼女と再び繋がる資格はない。……いや、一度はアスナを置き去りにして、独りで死のうとしたのだ。もう俺には、彼女に触れる資格すらないのかもしれない……。
これ以上アスナを汚すことは許されない。狂ってしまいそうな自分を抑えるため、力の入らない拳をぎゅっと握った。そんな俺の心を読んだのか。アスナは俺の頬に右手を添え、女神のような微笑を浮べる。引き寄せ、俺の耳元で囁くように言った。
「――ねぇ」
涙を湛えた瞳がくるくると瞬いた。妖精の羽の音のような声が、仮想の鼓膜を震わせる。
――きて。
鼓動が早鐘のように鳴った。アスナの白い指が下に降りてきて、俺の鎖骨をざわりとなぞる。
そして、世界を真っ白に染め上げた。
舐める。吸う。噛みつく。
あらゆる接触を試みても、俺とアスナを隔てる障壁は絶対的な存在感をもって立ちはだかった。
何故だ。何故、俺とアスナはこんなにも深く断絶しているのか。俺は泣きそうになりながらも、彼女の全てを手に入れようと必死でその滑らかな肌に吸い付いた。
残り15%。
ステータス画面が一切操作出来なくなっている今の状況では、あらゆるコードが解除されているのか、互いの衣服すらアバターに直接接触することで着脱可能になっていた。これまでは当然、衣服は互いに装備欄から外していたので、俺は初めて彼女の衣服を脱がしたことになる。衣服を半分ほど外し終えてうっとりとその半裸身を眺める俺の背を、アスナは優しく撫でた。俺はひどくほっとして、アスナの胸の頂きにぎゅっと噛みつく。
「……ぁっ、ん……っ」
22層森の家で過ごした蜜月では時に悲鳴じみた甲高い嬌声を上げていたアスナだが、今時折上がる甘い声はつつましく、少しだけ艶っぽくて、何だかアスナが急にすごく年上になってしまったみたいに感じた。
――いや、それとも。俺が幼くなってしまったのか。彼女に縋りつき、ぽたぽたと瞳から雫をこぼす様は、まるで迷子の子供だ。情けなくなるが、アスナはそれすらも優しく受け止めてふんわりと俺を包んでくれる。
「…………きりと……、くん…………」
「…………、ア、スナっ…………」
残り7%。
もう、言葉は要らなかった。
俺が彼女を欲している。彼女も俺を欲している。全身から溢れる温かで激しい思慕を、キスに乗せてアスナに送った。
はぐれ者のビーターと、未来を失くした怖がりの赤ずきん。俺たちは、片方では何かが欠けていた。どちらか一方だけでは生きることは出来なかった。だから、今。心も体も、一ミクロンの隙間もないくらい、寄せ合って。
自身を深くアスナに埋没させると、ようやく言いようのない不安感から少しだけ逃れられた気がした。俺たちは固く、固く抱き合った。
――これでいい。
このまま消えられるのなら、それで良かった。
幸せだ。一生に一人、見つけられるかどうかという最愛の人に出会えたのだから。誰かを本気で愛することが、出来たのだから。
あまり動けなかったが、やがてアスナは短く声を上げて達したようだった。断続的に痙攣する花菊の茎のように細い首元に唇を這わせ、俺は消え入りそうな声で囁く。
「ごめん…………君を元の世界に還すって、約束、したのに…………俺は…………っ」
「……ううん。いいの…………、いいんだよ…………」
アスナは何度も頭を振ると、最後に名前を教えて欲しいと言った。現実世界に置いてきた本当の名前だとようやく気付く。
お互いの名を交換すると、俺がこの世界で纏ったあらゆる鎧が次々と剥がれ落ちていった。そして、二年もの間眠りについていた桐ヶ谷和人の意識が、ゆっくりと浮上してくる。俺は泣きながらアスナに謝り、華奢な体を抱きしめた。二人の狭間にあった障壁は、もうなくなっていた。ようやく、一つになれたのだ。俺たちは一つになって消えていく。
消えていく。
初出:2015年11月7日

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