後ろ暗い気持ちがないと言えばうそになる。
だが、ひとは時として理性よりも本能が、己が身体に命令を下す時もあるのだ。
それらの人間の神経系の伝達処理は、仮想空間とて仕組みは変わらない。生身の身体がアバターになるだけだ。
そして、アスナにとって今がまさに《その時》だった。
(食べないなぁ…………)
普段の赤と白の騎士服をストレージにしまい、今は装備することもなくなった灰色のフーデッドケープを目元まで深くかぶって樹の陰にこっそりと隠れる。この時間帯は冒険から帰ってきたプレイヤーたちが夕食とつかの間の休息を愉しむ時間帯なので、最前線の主街区であるこの街は人で溢れかえっているはずだ。しかし、さすがは孤独を好むソロプレイヤー。一体どうやって見つけたのかと突っ込みたくなるほどひとが来ない、町はずれのNPCレストランにわざわざ赴いてディナーを摂るらしい。おかげでアスナもばれずについていくのに随分苦労した。
(まさか……このまま捨てられたり、しないよね?)
いくらなんでもそれは……とアスナも思う。しかし、まだ陽が真上に到達する前に渡したのにも関わらず、昼ご飯もおやつの時間も素通りしたのは少々心配な案件だった。
――はやく、食べてくれないかなぁ……。
アスナは本日何度目かわからないため息を、サウンド音が発生しないようにそっと吐いた。
最前線、迷宮区タワー、朝十一時。
アスナがいつものように今層のフロアマッピングを始めてから、二時間が経過した。
今日は比較的早く、《目的のもの》を見つけることができた。アスナが毎日血盟騎士団のメンバーの目を盗んで必死に探す《目的のもの》。それは、未開封の宝箱でもなければ高価で取引されるレアドロップ品でもない。というか厳密に言えばものですらない。
全体的な色彩は、黒。
目立たない色代表な気もするが、あそこまで全身統一されていると逆にわかりやすい。アスナと変わらない位置にある黒曜石のような瞳。どこか透明感ある、浮世離れした空気を醸し出すその少年は、攻略組の間では《黒の剣士》の二つ名で知られている。
落ち着いて、声が緊張のあまり上ずらないようにその名前を呼べば、剣士は長い前髪をぱさりと揺らして振り向いた。
「たまたま多く作りすぎちゃったんだけど」と言い訳をしつつ、アスナは籐かごを差し出す。
「いる?」
そう言ってかごを少し持ち上げれば、黒の剣士改めキリトはこくこくと頷いた。安堵で心がふわっと弛緩する。とく、とく、と高まる心臓の鼓動が、彼にばれないかが心配だ。
もちろんまさか『たまたま』作りすぎたなんてことはなく、朝早くに起きて、もうすぐ完全習得する己が料理スキルを最大限に駆使し、気合を入れて《生ハムとたまごのサンドイッチ》《チョコチップクッキー》を調理したわけだが。
自分の分は、キリトにあげたものの三分の一にも満たない量だ。しかし、そんなことをキリトに打ち明けるわけにはいかない。打ち明けたら、いくら鈍い彼とはいえ自分の気持ちに気づいてしまう。
――わたしは、キリト君のことが好き。
そう気づいたのは、とある事件を二人で調査した直後のこと。
心の中で何度も否定してみた。自分の気持ちを疑ってみた。けれど、彼と会えた時に、狂おしいほどの慕情が胸に熱くこみ上げてきて、もうごまかせないと自分の気持ちを悟った。
これは、片思いというやつだ。
昔、女子中学校の同級生たちが話していた、少女漫画の中でしか聞いたことのない感情。それを今、デスゲームという異常な環境下で自分が抱いているのがとても不思議だった。しかし嫌な気分ではない。むしろ恋してからの毎日はとても新鮮で、ともすればアバターがどこかへふわふわと舞い上がってしまいそうだ。最近は、明日が来るのが楽しみになった。好きな人のことを考えて、迷宮区でも、街中でも、会えるだけで、毎日が色づいていく。
恋をしている。それだけでアスナの世界は、いくつもの宝石が散りばめられたかのようにきらきらと輝いた。
だけど、今はまだ、自分の口からその甘酸っぱい気持ちを言語化する勇気はない。だからそれまでは、《片思い》という年頃の女の子たちが普通にしていることを、わたしも楽しむのだ。そんな当たり前の日常を求めることは、デスゲームに囚われたからといって決して許されぬことではない。
恋愛経験がないに等しいアスナにとっては、《お弁当をたまたま二つ持ってた体でさりげなくキリトにあげる》というだけで大変ハードな試練だったのだが、キリトは予想通りというかそんな乙女心を汲み取る気配も見せずに、ひたすらサンドイッチとクッキーの入ったそれを輝きに満ちた瞳で凝視していた。
――やっぱりごはんがいちばんなのかしら。
男の子だもんね、と一応納得してみるのだが、その瞳が自分に向けられることがないのが何となく釈然としない。
心中で本日一回目となる記念すべきため息をつく。達成感半分、呆れ半分で「はい」と手渡せば、キリトは相変わらず視線を食べ物にがっちり固定したまま、
「あ、ありがとう!」
と仰々しくも元気よくお礼を言った。
あれから九時間三十四分が過ぎた。
キリトがバスケットをストレージから取り出す気配はない。
――せめて一口でも、キリトが自分の手料理を食べるところを見たい。
そう思うアスナの気持ちのベクトルはおおむね間違っていない。
しかし、気にしすぎたあまり変装までしてこっそり夕食現場まで尾行してしまったのは、ちょっとだけやりすぎたような気がする。が、ここまで来て諦めるのは性分ではない。
NPC料理人の確実にアスナのサンドイッチより数段劣る丸パンを、キリトは無感動に咀嚼していた。わたしのごはんのほうがぜったい美味しいのに……! と内心もどかしく思うが、いかに料理スキルニアコンプリートのアスナも、突然草むらから飛び出して手料理を振る舞う度量は持ち合わせていない。いっそのこと、料理を振る舞うきっかけを彼から持ってきてはくれれば…………と期待するも、可能性としては0に等しい。
現在キリトは、レストランの屋外テラスで食事をしている。ソロごはんするキリトを見つめ続けること数十分。彼が食後のコーヒー(と思われる黒い液体)を飲んで立ち上がってようやく、アスナは自分のミスに気が付いた。このままでは、帰りにここを通るであろうキリトに間違いなく己の存在を勘付かれる。
彼の索敵スキルは完全習得間近であるし、何より《ゲーム勘》としか呼べない『何か怪しい』と感じるシステム外スキルが逞しい。どうしよう、どうしよう――とおろおろ焦っている間にも、キリトは一歩、また一歩と近づいてくる。
こんなに危機的な状況だというのに、アスナは自分に近づく愛おしい存在に胸がきゅうっと締め付けられた。
もはやばれないことを祈るのみだった。さっと隠れ、息を殺し、気配を消し、自分と背景オブジェクトを同一化させる。チカチカと胸に瞬くときめきが、アバターの感情エフェクトに反映されないことを、ただ祈る――――……
とくん、とくん。
「――――誰だ」
しかし。キリトは灰色のケープを被って隠れる人物に気が付いてしまった。一気に間合いを縮め、手刀をアスナの細い首元に触れさせる。彼がアスナの顔を掠めて後ろの木に手をついたため、アスナの退路は封じられた。圏内なのでHPは減らないが、キリトが体術スキルを発動させた瞬間にイエローのライトエフェクトが散ることになる。
(きゃ……っ)
本来ならばアスナも回避や防御をすることは出来た。だが、至近距離にキリトがいるという状況は、恋心に気付きたての暴走気味な脳機能をさらに低下させた。もはや、自分がこの状況に、焦っているのか嬉しいのかすらよくわからない。
「…………ぅ……」
かろうじて発することができたのは、小さな喘ぎ。しかし、それだけでキリトはその《灰ずきんちゃん》が誰だかわかったようだ。
「あ、アスナ?」
本気でびっくりしたらしいキリトは確かめるようにケープの中を覗き込んだ。アスナは目を瞑り、俯いてその視線から逃れようとする。
「どうしてこんなトコに――……つかその格好は一体……」
「う、うぅ…………」
全ての質問は『キリト君を尾行するため』で片づけられるのだが、もちろん言わない。というか言えない。今鏡があるのなら、自分の顔は真っ赤に茹で上がっているはずだ。そうわかるほどアスナは自分の顔に熱を感じた。
そっと瞼を持ち上げると、キリトの驚いた表情が思ったよりも近くにあることに気が付いた。ちょっと動けば、触れてしまいそうな距離。彼の吐く吐息が、アスナの聴覚と触覚を同時に震わせた。
「き、キリト君、ちか……………」
少し身をよじれば、アスナの灰色のケープも滑り落ち、美しい栗色の髪が星明りの下にさらされた。
――上ずった自分の声を、変だと思われなかっただろうか。
それでもこれ以上体を密着させていると、仮想の心臓が壊れてしまいそうで、アスナは短く声を上げた。
幸いというかなんというか、キリトはようやく自分の大胆な行動に気が付いたようで。はっと目を見開くと、頬を染めて大いに慌てふためく。すぐに二人の距離は二メートル弱にまで広がり、アスナはほっとしたようなちょっと残念なような、微妙なニュアンスのため息をついた。
「――で。一体アスナさんはどうしたんですか……?」
怪しさ三割、不思議さ七割の気持ちを込めた疑問形を用いて、キリトは尋ねた。
「た、たまたま、通りかかって……」
「こんな人気の少ない場所に?」
「そ、そう」
「血盟騎士団副団長ともあろうお方が、一人で?」
「う、うん」
「何の用で?」
「く、草むしり…………」
「……………………」
うわぁ。
自分の口から生み出された低能な釈明に、心のなかで愕然とする。もうちょっと考えてから発言出来ただろう。もう ちょっとましな言い訳があっただろう。せめてクエストの途中だったとか、穴場のレストラン探しに来たとか言えればよかった。しかし今更代替案が思いついたところでどうしようもない。
あぁ、ほら。キリトがぶっと噴き出したかと思うと、必死でお腹を抑えている。やがて、こらえきれない笑いがくつくつとアスナの耳にも届いてきた。
最低最悪の状況に、穴があったら入りたいと身もだえていると、
「――で、ほんとのところは、何の用?」
《大爆笑》をどうにかキャンセルしたキリトが真剣味を加えた声で問い直す。
「………………」
なんだか悔しくて、ぷいと横を向き、アスナは無言の沈黙を貫く。すると意外にも、キリトはあっさりと聴聞を終了した。
「ま、いいさ。言いたくなきゃ別に無理して聞かないよ。……さて、俺は一度宿屋で仮眠とるから転移門の近くまで戻るけど、アスナはどうする?」
大きく伸びをして立ち上がり、キリトはアスナに手を差し伸べる。夜空と同化しそうなその立ち姿が、無数の星に照らされて仄淡く発光した。
その瞬間――――
瞳に、うっすらと揺蕩う寂しげなゆらめきを、アスナは見逃さなかった。
キリトはいつも、考え過ぎの気を遣いすぎの優しすぎだ。
アスナが言いたくないこと。それは何なのかを考察したキリトはおそらくほんとうのアスナの尾行理由とは見当違いな考えを思いついたのだろう。
そう、たとえば、Kobの任務でアスナがキリトの動向をチェックしている――とか。
正直、ありえないとは言えない話だ。《黒の剣士》キリトと言えば、反応速度、観察眼、洞察力、全てが攻略組の中でも頭一つ抜きんでてる。《神聖剣》ヒースクリフ団長と並んで、その強さを不思議がられるのも無理はない。しかし、それは時として妬み嫉みの対象にもなる。「ビーターにLAなんぞくれてやるな」とは初期層のフロアボス戦でよく耳にした野次であるが、その風潮はより複雑化して、現在も攻略組内部に密かに根付いている。だから、彼の動きを封じておきたいと思う者は確かに多い。
そして当の本人は、そういった内情をよしとする偽悪的なところがある。自分一人が悪者になるならそれでいい――、と。
――だけど。すべて背負って平気な顔をしていられるほど、ほんとうは君は強くないよね?
――自覚しているのかどうか、怪しいけど。
誰にも聞こえない、キリトの心の声を、支えを求める姿を、垣間見たような気がして。アスナはようやくいつもの平静さを取り戻した。穏やかな微笑を湛えて、キリトから差し出された手をぎゅうぅっとSTRの限りを尽くし強く握りしめる。
「ウッ!?」
痛くはないだろうが、触られる感覚よりも強い信号がキリトのアバターに送られた。しかめっ面になったキリトに、アスナはふわりと微笑んで――
「――つよがり」
唇を微小に動かして囁くと、一切を白状した。
「え、えぇ!?そんなこと!?」
アスナの告白――もちろん愛の告白ではなく尾行理由のことについてである――を聞いたキリトは、予想外だったようで叫んで口をあんぐりと開けたまま停止した。
「そんなことじゃないよ!折角あげたんだからちゃんと食べてほしかったの!いらなかったのかと思って心配したじゃない!」
「そ、そんなのアスナの手料理ならうまいに決まってるじゃん……食うに決まってるじゃん……確認するまでもないじゃん…………なんでわざわざ……」
そこでじろりとアスナが鋭くにらむので、キリトはぶんぶん首を振って「イヤ、ナンデモナイデス」と片言の日本語で答える。
「で、どうしてすぐ食べなかったの?君のことだから、てっきりすぐお昼ごはんに食べるかと思ってたのに」
「いやー、それでも良かったんだけどさ……」
そこで何故かキリトは口をもごもごさせ、いくつか怪しげな呪文を唱えたのち、くっきりとした黒い睫毛を伏せて言った。
「せっかくアスナがくれたうまい飯なら、一番精神補正がかかる時間帯に食べようと思って……」
「え?」
――精神補正?
アスナの頭上にはてなマークでも見えたのだろうか、キリトは頷くともう少し言葉を足した。
「この後仮眠したらさ、俺、定点狩りでレベリングするんだけど……」
「うん」
「六時間ぶっ通しなんだけど……」
「うん」
「そこで疲れてへとへとになったら食おうかなーと…………」
「えぇ?」
アスナには相変わらず全貌の半分も見えなかった。
確かに、朝確認した耐久度ならそれくらいの時間まで保つだろう。しかし、そんな真夜中の半端な時間に食事をすることに一体どのような精神的効果をもたらすというのか。キリトは言いづらそうにしていたが、意を決したのかアスナのはしばみ色の瞳をまっすぐ見つめた。
「だから……とっておきの夜食にしようと思ってたんだよ。ホラ、俺ソロだし、長時間戦闘だし、集中力居るし。やっぱり体力的にも精神的にも結構疲れるんだけど……。でも今日は、アスナからもらった弁当があるから。ハードなナイトタイムも、いつもよりがんばれるかなー、なんて……いう………………」
アスナからもらった弁当があるから、がんばれる。
――――その言葉を聞いた途端。
アスナは超高速でぐるんと回れ右をしていた。そのまま、脚を勢いよく踏み出し、AGI全開でダッシュを開始。キリトの元から遁走する。
「え?アスナ!?」
突然ぴゅーっと逃げ出したアスナに、キリトは慌てて追随した。
「待てって!どうしたんだよー!」
「な、なんでもないっ!」
木々を縫って追いかけっこする二人を森と夜空が温かく見守っていた。
――今は、キリトに顔を見せるわけにはいかない。
溢れるほどの喜びで、だらしなく口元が緩んでいる、今の表情だけは。
初出:2015年5月18日

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