三十八.五

「もーっ、キリト君ってばー!」
「ああぁぁ…………」

短い攻防戦の末、悲痛な声を上げた俺の両手から明日奈がアミュスフィアを無慈悲に取り上げた。悲しみに打ちひしがれ、泣きそうになるのをぐっとこらえる。明日奈はそんな不安定な俺の様子にツッコみも入れず、強制的にベッドに押し倒した。

「病人はおとなしく寝てなきゃいけません!」
「だ、だって眠れなかったんだったんだよう……」

もそもそと布団に隠れる俺のささやかな言い訳は当然聞き入れられるはずもなく、明日奈は没収したアミュスフィアを俺の手の届かない位置に置いた。

二〇二五年十一月某日。
桐ケ谷家では母→妹とうつっていた風邪菌が、最後の砦である和人の体内に侵入することに成功していた。

ある朝目覚めてみると、体がずんと重かった。

声もうまく出せないし、階段を降りる足元はおぼつかない。全身に力が入らないし、頭はガンガンする。これは、これはもしかしなくとも…………。
「風邪だよ、お兄ちゃん……」

うつちゃったかーとがっくりうなだれた直葉は、ぐいぐいと俺を部屋に押し戻した。つい先日まで彼女を苦しめていた病原菌は、どうやら桐ケ谷家のマッピング率百パーセントを目指しているらしい。ベッドに倒れこんだ俺に向かって、ちゃんと病院に行くんだよ!と念を押して直葉は学校に向かった。
「病院かぁ……」

静まり返った部屋で一人ごちる。一応熱を測ってみると、三十八度あって少々びっくりした。アインクラッドでは風邪はバッドステータスでしかないので、自分が最後に風邪を引いたのがいつか思い出せないが、こんなに高熱を出したのはおそらく相当小さいころだろう。

病院に行け、と直葉には念押しされたが、残念ながら行く気にはなれなかった。十一月ともなれば外は寒く、窓には結露も発生している。熱しきった己の体も外気に触れれば冷めてくれるのかな、と一瞬本気で思ったけどいかんせん体がだるい。もうここから一歩も動きたくない。

今日は一日自室で平穏に過ごそう。そう決めて俺は布団を抱きかかえたのだが――。

眠れない。

昨日寝すぎた?

姿勢がおかしい?

そう思ってうつぶせになったり仰向けになったり横向きになったり試行錯誤してみたのだがさっぱり眠気が訪れない。しまいには瞼の閉じ方までわからなくなってきて、ぐるぐるベッドで転がり続けた俺は、逆転の発想で眠るのをあきらめた。そして暇つぶしにALOにログインした。

仮想世界ではさほど倦怠感を感じなかった俺は調子にのり、ついつい何時間もダイブしていた。すると、なぜか部屋にいた明日奈さんに強制ログアウトさせられてしまった――というわけなのだ。

「もーっ、キリト君ってばー!」
「ああぁぁ…………」
「病人はおとなしく寝てなきゃいけません!」
「だ、だって眠れなかったんだったんだよう……」

もそもそと布団に隠れる俺のささやかな言い訳は当然聞き入れられるはずもなく、明日奈は没収したアミュスフィアを俺の手の届かない位置に置いた。

それにしても、なぜ明日奈が我が桐ケ谷家に……。

明日奈には風邪のことを知らせていない。それ以前に家には俺以外誰もいない。一体どうやって入ってきたんだろう……。

理由を問えば、彼女はあっけからんと答えた。

「直葉ちゃんから連絡あったんだよー。お兄ちゃん、ちゃんと寝てるか見てあげてくださいって。鍵も預かったの」

今日、直葉ちゃんも翠さんも遅いんでしょう?そう言ってほほ笑みながら、明日奈はふわりとくしゃくしゃになった毛布を俺にかけた。隙間風が通らないように、毛布を俺とベッドの間に挟み込む。体温が逃げ場を失い、急激に体感温度が上昇した。

「まだご飯食べてないんでしょキリト君。ダメだよー風邪のときはちゃんと食べないと。作ってきてあげるからちょっと待ってて?その間に体温、計っといてね!」
「う…………」

とんとんとん、と彼女が軽やかに階段を降りていく。栗色の髪が視界から消え去ると、先ほどまで胸を占めていた温かさが消失して、少し寂しくなった。
時計の針は午後一時を指していた。明日奈が置いていった体温計に手を伸ばし、乱暴に脇に差し込む。俺の暗い部屋は、明日奈がいなくなると途端に華やかさを失い、見るに堪えかねてゆるゆると瞼を閉じた。

明日奈が、俺が熱だと知って看病に来てくれた。それだけで風邪になった甲斐があるというか、恋人冥利に尽きる。なんだかとても温かい気持ちになるので、出来ることならずっと隣にいてほしい。そう思う気持ちは山々なのだが、明日奈は今週いっぱいは大量の課題に忙殺されていたはずだ。俺の体調管理が悪いせいで、彼女に無理をさせてしまうのは忍びない。

ぴぴぴ、と体温計が計測終了の電子音を鳴らす。三十九.五度。朝から一度以上も上がってた。まあ、おとなしく休んでなかった自分が悪いんだけど……。

俺はすばやく体温計をリセットして、もう一度脇に差し込んだ。そして、数値が上昇する前にそっと抜き出した。

「はい、キリト君おじやだよ。熱いから気を付けて食べてね」

小さな鍋と器を乗せたお盆を抱えた明日奈はどうしようもなく美しかった。制服のブレザーは脱ぎ、代わりに山吹色のエプロンを装着している。お盆を置いておじやを小さな器によそう。長い睫がそっと伏せられる。何気ない一つ一つの美しい所作に一瞬思考を持っていかれたが、なんとか取り戻して俺は明日奈に体温計を差し出した。

「ん。三十七.三度。だいぶ下がってきたから、多分大丈夫だと思う」

明日奈は動きを中断させ、そのデジタル数字を大きなはしばみ色の瞳で覗き込んだ。

「だからさ…………」

俺に構わないで、いいよ。

君の足手まといになるのが怖いんだ。

それは上手く言葉にならなかった。

明日奈は現実世界においても、あの頃と同じ輝きがある。

美しく、賢く、そして強い。俺はその輝きに見合うとは、とうてい思えなかった。旧アインクラッドで手に入れたキリトの強さは、現実の桐ケ谷和人は持ち合わせていない。大した力も持たないただの男子高校生。そんな俺が君の隣にいて、迷惑がかかるような、そんなことはしたくないんだ――。
突然、細く美しい指が俺の唇に触れた。

まるで次に俺が紡ぐ言葉を遮るかのように。

慈愛に満ちた明日奈の整った顔が、ずいっと近づいてくる。冷たい指先が、俺の唇をなぞり、体温を奪ってゆく。

「あ……あす…………」
「うそつき」

そのまま柔らかな彼女の体が、俺の火照った全身を包み込んだ。

強く抱きしめられ、俺は身動きを封じられる。俺は力を抜いて彼女の肩口に顔を埋もれさせた。それにこたえるかのようにぎゅうっと明日奈は俺の首に両腕を回す。

顔が熱い。

長い間、そうやって、互いの額を重ね合わせて体温を共有した。俺の熱は、明日奈の冷たく気持ちいい肌に触れて溶けていった。

「ん…………」

やがて明日奈は腕の力を緩めると、俺を引き離した。

優美な動作でおとがいに手を掛け、真剣に何かを考えている。

そして、ありえない言葉を呟いた。

「三十八.五度」
「………………え?」

彼女の口から聞くはずのなかった数値が発せられ、俺の動きはフリーズした。
明日奈は先ほどまでの空気を変えるように、俺の黒髪をかき分けておでこに手を当てがう。

「もー、キリト君熱ちゃんと計ったぁー?」
「……う、うん」
「じゃあ体温計が壊れてるのかしら……。平熱より五度も高いわ。とにかく、早く食べて、汗かいてしっかり寝ること!今ご飯食べさせてあげるからね♪」
「………………………」
(先ほどの抱擁は体温を測っていたのか……)

ここで本当はいろいろツッコむべきだったのだが、俺が口を動かすよりもはやく「あーん」とニコニコ顔でスプーンを差し出してきたのでおとなしくそれにかぶりつくことにした。

「ごはん食べ終わったら薬飲んでね。それで、いっぱい汗かいて熱を出すの」

こくんと小さく頷くと、彼女はバックに花が舞うくらい可憐にほほ笑んだ。思わず明日奈の右手をつかむと、自然と言葉がこぼれていた。

「明日奈、……今日は、ここにいて…………」

先ほどの逡巡から一転、己の欲求が口から滑り落ちる。
明日奈を困った顔をしているかもしれない。そう思うと怖くて顔を上げられなかった。でも止められなくて、ぎゅっと目を瞑り、明日奈の小さな白い左手をそっと握りしめる。
ふと、頭皮に暖かな重みを感じた。

「わたしはこの時間がいちばん大切だよ」
「え?」

明日奈の右手が俺の頭にのっていた。優しく、優しく俺の髪を撫でつけている。

「君といる時間がいちばんしあわせ」

俺が飲む予定の錠剤をぽいっと口に含んだ明日奈は、ほにゃりと笑って柔らかな唇を俺の唇に重ね合わせた。

初出:2015年1月25日

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