「――いや。キリトくんとは、手をつなぎたくない……」
瞳に涙を溜めながらそう懇願する明日奈。
俺は何を言われたのかわからず、ただ呆然とすることしかできなかった――。
*
期末試験も終わり、高校生最初の夏休みが幕開けようとしている七月中旬の放課後。
俺は二人分の缶ジュースを抱えて、廊下を歩いていた。
「あつい……」
汗でじっとりと湿ったシャツが肌に張り付く。シャツをつまんでバタバタと風を通せば、不快感がわずかに遠ざかった。
この頃、俺と明日奈は授業が終わっても学校に留まっていることが多くなった。
理由は単純、暑いからだ。
今年は気象庁が「災害レベルの暑さ」と注意喚起をするほどの酷暑である。まだ7月の中旬なのに東京でも気温が35度を超えることもしばしばで、ここ帰還者学校でも熱中症で緊急搬送された生徒が相次ぎ、部活は極力室内でするようにという異例の注意喚起がされた。
俺たち《SAO帰還者》にとって真夏の暑さや日差しを体感するのは約二年ぶりのことである。それが数年に一度の異常気象と重なったら人体に及ぶ影響は大きくなるのが必然だろう。
特に明日奈はもともと身体の色素が薄く、そんな彼女を長時間日差しに晒すことに抵抗があった俺は、放課後は学校に残ることを提案した。明日奈にはちょっと眉を顰められたものの(彼女は俺が少し体のことを心配すると過保護すぎると言ってむくれてしまうのだ)、最近は教室とか図書館とかでのんびりしてから夕焼けの綺麗な時間に帰るのが日課になりつつある。
そんなわけで、いま明日奈は涼しい教室で俺の帰りを待っている――はずだったのだが、この暑さでエアコンの調子もおかしくなってしまったらしく、教室はややぬるめの温度になっていた。
つま先で教室の戸をゆっくりと開けると、窓側三列目の席で、小さく揺れる栗色の髪が見える。どうやら課題に取り組んでいるようで、額には薄っすら汗が滲んでいた。集中しているのだろう、俺が入ってきたことには気づいていないらしい。
「明日奈」
名前を呼べば、明日奈は走らせていたシャーペンをピタリと止めて顔を上げた。振り向きざま、雪のように白い頬に冷たい缶ジュースを当てると「ひゃあ!」と小さく悲鳴をあげる。
「……もう、びっくりしたじゃない」
ふつうに渡してよ、とくちびるを尖らせる仕草がとても愛らしかったが口には出さず、苦笑しながら前の席へ腰掛けた。
「ごめんごめん」
缶ジュースを改めて差し出すと、明日奈はすぐにプルトップを引いた。
「ありがとう、キリトくん」
そう言って向日葵のようにふわりと微笑む明日奈に、俺の鼓動も自然と早くなる。
「ど、ドウイタシマシテ……」
気恥ずかしくなって視線をずらせば、汗を吸ったシャツから透ける水色の肌着が目に入った。
――やっぱり夏は危険だ。いろんな意味で。
室外では紫外線や気温、室内では恋人のシャツから透ける肌着や半袖から覗くまっしろな腕だとかが、俺の心拍数を上昇させる。なるべくじっと見過ぎないように目線を変えるのだが、そのたびに新たなウィークポイントを見つけてしまい煩悶とする。
俺がひとりで葛藤している間にすっかり課題を終わらせてしまったらしい明日奈が、「どうしたの?」と言いたげにこちらを見ている。まさか明日奈のことを考えてドキドキしていたんだとは言えず、俺はあいまいに笑った。
「……そ、そろそろ帰りますか……」
熱を帯びた顔を隠すように立ち上がって、座ったままの明日奈に手を差し伸べた。
「? わかった、じゃあこれ片付けちゃうね」
明日奈はその手には触れず、鞄を持って立ち上がり、俺の隣に並んだ。
*
綺麗な茜色に染まる空の下を、二人で並んで帰る。
だが俺は、先程からある違和感を覚えていた。
(いつも繋いでくれるのに……)
そう、いつもはなんとはなしに繋がれる手が、繋がれていないのだ。そういえば先ほど差し出した手も器用にかわされてしまった。
すっかり明日奈と手を繋ぐのがデフォルトになっている俺は、彼女の温かさを感じることができない右手を持て余している。
それ以外はいつもと変わらない様子の明日奈は、楽しそうにおしゃべりに花を咲かせていた。
「それでね、リズったらおかしいの。サバの味噌煮をねえ……」
「――明日奈」
珍しく俺が会話を遮ったので、明日奈はきょとんと目を丸くした。夕焼け色に染まる駅から学校までの住宅街の真ん中でふたり立ち止まる。
「……どうしたの、キリトくん?」
「その……、手、繋いでもいいか?」
手を繋ぐのにいちいち許可をとるなんて、それこそ遥か昔、まだ下層で「バフちょうだい」とやっていたころくらいだ。若干の気恥ずかしさとともにはしばみ色の瞳を見つめれば、明日奈は申し訳なさそうに瞼を伏せた。
「――いや」
はっきりとした拒絶。俺は予想外の返答に立ち尽くした。
「な、なんで……」
「……今日は、だめなの……キリトくんとは、手をつなぎたくない……」
腕を抱きしめ俯く明日奈。そんな顔をさせてしまった不甲斐なさに傷つくが、めげてはいられない。
「俺、なんかしたか?」
なるべく優しく、子どもにするように尋ねれば、明日奈はふるふると首を横に振る。
「手を怪我したとかだったら教えてくれ、俺もできる限り気を使うから」
荷物とか持つし! と付け加えれば、明日奈はこれまた首を横に振った。
「……ちがうの、これはわたしが気にしてるだけで……キリトくんには関係ないことなの……っ!」
「かっ……関係なくはないだろ!」
明日奈の言っていることがわからなすぎて、つい語気を強めて言い返してしまう。ビクッと肩を震わせて逃れるように体をひねる明日奈。胸に重ねられた両手でシャツを軽く握っている。耐えきれなくなった俺は、その上に自分の右手を重ねた。
「明日奈にかかわることは、ぜんぶ俺にも関係ある……と、思います……っ!」
現実世界でなら負けない筋力パラメータを利用して明日奈の手首をホールドし、騒動の元凶である手のひらを暴く。
「やぁ――――っ! だっ、だめぇ――――――!」
ついに開かれたその手には――特に、何もなかった。
「あれ……?」
ふっくら真っ白な肌。綺麗に整えられた爪。傷ひとつない指先。
明日奈は恥ずかしいのか怒っているのか完全に顔を背けてしまっているが、俺にはいつもと違いがわからず困惑した。
「ううう、だからキリトくんには気づいてほしくなかったのに……!」
「あのう……」
「キリトくんのバカ! バカバカ!」
「そのう……」
「げ、幻滅したよね? こんな……こんな手汗いっぱいかいちゃう女の子なんて……」
「へ??」
――手汗?
よくよく見たら、確かに明日奈の手のひらは多少湿ってる気がする。こんなに暑いのだから当然だ。それと、俺と手を繋げないことに、いったいなんの関係が?
「手汗なら俺だってかいてるよ、仮想世界じゃないんだし……生理現象だし……っていうかなんでそれだと手を繋げなくなるんだ……?」
「だ、だってキリトくんの手も、わたしの汗でビショビショになっちゃうし……って、幻滅、しないの……?」
涙目になった瞳をようやくこちらに向けた明日奈が驚いたように問うたので、おもわず笑ってしまった。
「あたりまえだろ。発汗は温度調整に必要な機能なんだから、してくれてないとむしろ困ります」
ぽかんとする明日奈の一瞬の隙をついて、その左手に自分の右手を重ねる。指の間に自分のものをさしこめば、しっとりとした肌がピタリと密着した。明日奈はおびえるそぶりを見せたが、ここで手を繋げるようにならなければ夏の間はずーっと手を繋げないことになってしまう。それは嫌だ。
「明日奈は俺が汗かいたら幻滅するのか?」
「そ、そんなわけない!」
「じゃあ逆も然りってことで、問題ないな」
離さぬように、その手をぎゅっと握る。
ああ、やっと繋がれた。どんなに暑くても、明日奈と体温を分かち合うこの行為がなによりも好きだ。明日奈はあーだのうーだの言っていたが、俺が安堵の笑みを浮かべると頬を赤らめながら押し黙った。
そんな明日奈が愛おしくて、俺は索敵スキルで誰もいないことを確かめると、桜色の唇に自分のものを重ねる。
離した唇をそのまま明日奈の耳に近づけて、ついでにひとつ、忠告を。
「というか、汗を気にするなら……」
――シャツが透けて下が見えちゃってるほうを、なんとかしてください。
小さく囁けば、明日奈は耳まで顔を真っ赤にして口をわなわなさせた。
夕暮れの帰り道。輝き始めた星々の下で、君とはぐれないようにこの手を繋ごう。
初出:2018年9月30日

コメントを残す